山と森と侗(トン)族と私

文物2

通道県の域内の地下の文化遺跡や古墳群は73ヶ所あり、文化層の堆積面積は39.4ha、その文化の根源は新石器時代までさかのぼることができ、地上に残っている移動できない文物は914ヵ所ある。今のところすでに級が定められ公表されている国家レベルで保護されている文物は3ヵ所、省レベルで保護しているのは6ヶ所、市・県レベルで保護しているのは6ヶ所あり、分類の種類は古い建築、歴史記念建築、近代重要史跡などがある。通道は文物を多く持つ県である。「百里侗文化長廊」の範囲内だけでも512ヵ所地上で動かせない文物がある。よく通道を調査する専門家や学者はみんな「百里侗文化長廊」は侗民族文化の逸品で、その名に恥じない“侗民族実物博物館”だと認めている。

马田鼓楼

 通道県東南32kmの坪阳乡马田村にある。清の順治帝の時代(1644~1661年)に建てられ、1948年に修復された。面積は240㎡、平面構成は長方形、高さ18.72m、底層は長方形、一~八階は四角、九階は八角になっている。

“干栏式”、梁純木で骨組みが作られた。南北が対称の偏楼は“歇山頂式”で、その頂部が主楼の二階と平行している。下の一階は主楼の一階とつながっている。底層は空間、二階は劇台になっており、偏楼と主楼一緒になった壮観の建築である。鼓楼内は“桃枋、柱、瓜”と形式はそれぞれ異なり、形式の数は差があるが、ちゃんと配置されている。“物華天宝、国泰民安、吉星高照”などの字が一~ニ階の枋に彫られている。民族特有の小さい彩色上絵の花模様や巻き草模様の図案をもち、排列がよく、メインと脇役がはっきり分けられている芸術装飾だ。侗族文化の逸品をいうには欠かせない。

鼓楼の外側の各階の廂の上にはすべて花、鳥、虫の絵が飾られ、輪郭が明快で、色が鮮やかである。一~八階までの角の上には虎、龍、蛇、鳳凰など縁起や幸福を象徴する泥人形がそれぞれ飾られている。形態はそれぞれ異なり、生き生きとしている。美しい装飾と精巧な造型は鼓楼をいっそう雅やかで威厳があるように見せている。

1959年湖南省文物保護建築と公布され、1984年大改修され、1996年国務院によって全国級の重要保護建築とされた。

芋头侗寨古建筑群

通道県西南9kmの双江镇芋头村にあり、面積11.6ha。明の洪武帝の時代(1368~1398年)に建てられる。明の嘉靖帝3年に戸が増え、人も増えた。建築規模が拡大し、村落が形成された。清の順治帝の時代(1644~1661年)に火災にあい、修復の後、芋头渓流の両側に7個の集落が形成された。清の乾隆帝42年(1777年)寨脚橋、竜氏鼓楼、牙上鼓楼が建てられ、清の嘉庆帝5年(1800年)に中歩と塘坪という橋が建てられた。清の道光、光緒の時代に驿道と牙上鼓楼を修復した。

 芋头侗寨古建築群は山によって形体をなし、鼓楼、門楼、芦笙場、古井戸、涼亭、祭壇、古墳群、侗族の屋敷及び青石板の驿道など典型的な侗族の風格を持つ構造型がすべてそろっている。その中で、古い楼は4つ、風雨橋は3つ、門楼は1つ、古井戸は2つ、祭壇は2つ、吊脚楼居室は78棟、古い驿道は1.6kmある。芋头侗寨の建築は典型的な山地の谷間に属し、侗寨脊型と山谷型の建築様式である。集落の人々が多く採用しているのは、杆栏式である。吊脚楼式を採用している人もいる。南方の湿潤で蚊や虫が多い特色の山の気候に適するためである。屋根は懸山式で、小青瓦または杉の皮を施している。建物の色は質素であり、質感が人に適している。集落内の長さ1.6km、幅1mの驿道も全部勘築をたたいたりしてできた青石板をしいている。道の方向を示し、また村落の衛生環境を維持しているため、人々にとって便利である。

 古い侗族の集落は歴史と人文、及び芸術を研究するとても高い価値がある。

坪坦風雨橋

 坪坦乡境内の普済橋、回竜橋、回福橋、文星橋、永福橋、陇城镇境内の中歩二橋、中歩頭橋(人畜分道橋)、観月橋の9つの風雨橋が含まれ、2006年6月国家級重点保護建築と公布された。回竜橋と普済橋には最も特色がある。

 普済橋

  通道の西南22kmの坪坦乡坪坦村の坪坦河の上に横たわる。単孔伸梁式の廊下橋で、全長31.4m、幅3.8m。橋は廊下をつないで作られており、実質4本の柱の間に板が架けられている仕組み。建てられた年代は分からない。現存の橋は清の光緒帝21年(1895年)に復建。銘文が刻まれている。民国7年に補修。多くの福橋の中で最も有名で、橋の専門家にも橋建築の“生きた化石”と称えられ、赵州橋のように美しい。2000年5月、湖南省によって省級文物保護建築とされ、2006年6月に国家級重点保護建築とされた。

 回竜橋

  通道の西南20kmの坪坦乡坪日村郊外にあり、アーチ型で坪坦河の上に横たわる。清の乾隆帝26年(1762年)に建てられ、原名は竜星橋。1931年に修復され、改名して回竜橋、“迂回龙脉,环抱村庄”の意味をとっている。

  伸臂梁木架と迭梁木架式を採用。全長63.1m、幅3.86m、4本の柱の間に板をかけ、22の廊下と共に設置。原橋は分厚い木でできていたが、1974年の補修時に木から石へと変わった。橋の裏北面は檐柏枋板の壁がそろってとりつけられ、寒さや風をさえぎる。人々が風光を楽しめるように橋の西側は胸栏板でそろえられ、空間も一緒に残している。橋の両側は橋の面から0.52mはなして板が設置され、道行く人が涼んだり休んだりできる。橋の東西の端中部に3つの三階建ての六角攒尖葫芦顶亭阁が廊下を分けている。真ん中が高く、その間には神聖な位牌が設けられている。外部の南は杉の板で封鎖されており、本には“回竜橋”の3字が書かれている。

  西側は伸臂式を用い、アーチ型の荷重量橋である。最高点の高さは19.4m、アーチの傾斜は30度で、3列の杉を枕木としている。2種類の構成、異なる造型、侗族の職人が新しい工夫を凝らした橋建築の工芸レベルが集中して体現されている。侗族地区の橋建造を更に研究するため、きわめて希少価値のある実物資料を提供していると言える。西北で交流のある大橋専門家も回竜橋は橋建築でもとても研究する価値が高いと認めている。

  1959年湖南省の省級文物保護建築に指定され、2006年6月、国家級文物保護建築に指定された。

普修橋

県庁所在地の西南10km黄土乡新寨村付近にある。清の乾隆帝の時代に建てられ、清の嘉庆帝8年(1813年)に修復される。1984年に補修。全長57.7m、幅4.2m、21の廊下に区切られている。橋自身は重なる廂と長い廊下で成り立ち、3つのあずまやが分設され、橋の両端にはそれぞれ1つの橋門が設置されている。橋の廂は歇山頂式で、屋根と廂の角には泥でできた竜、鳳凰、鶏などの動物が置かれている。両側のあずまやは3重の廂になっており、四角形の平面で歇山頂式である。真ん中のあずまやは七重の密な廂で、下三階は四角形、上四階は八角形の攒尖葫顶式で、てっぺんに青い鳥の泥人形が一羽おいてある。回転し、風に当たると鳴る。あずまやの廂の角には獅子、鳳凰、巻き草などが飾られ、細身で高く、彫刻が精密で、曲線優美である。廊下の背骨のようなものには泥人形の2組の竜が戯れているのがある。装飾品には小さいガラス片を組み合わせてちりばめ、風上の葉を飾り、風で葉を動かし、光が交差して美しいことこの上ない。あずまやは表門を閉め、廂の板の上にいろいろな花や草の彩色上絵を施している。廊下の柱はペンキで塗られ、いろいろな色彩が入り乱れている。目が覚めるように美しく多様である。3つのあずまやには神棚が設けられ、真ん中のあずまやは神聖な神殿である。両側のあずまやは始祖の祠と文昌閣が設けられている。廊下には彩り豊かな旗や扁額がかけられ、いかにも光輝いている。雰囲気も熱烈だ。三孔四墩で支える橋体を採用し、墩の上に二階分の枕木を架け渡した片持ち梁の荷重量橋である。墩は青石を材料として築き上げられている。南端の橋の袂は地形の影響を受けているため、一つの石を積み重ねた3つ穴のアプローチが建てられている。侗族の里を訪れる南の商人、北の客もみんな普修橋の工芸を最高のものを見たと感嘆し、遊びにふけって帰るのを忘れるほどだ。1998年普修橋は市級の文物保護建築に指定された。

阳烂寨门鼓楼

通道県の西南26kmの坪坦乡阳烂村口にある。清の乾隆帝55年(1787年)に建てられ、総面積は242㎡、門閥式の鼓楼。

 阳烂鼓楼は門楼、主楼、後楼、連廊の4つの部分から構成される。門楼は三閥重檐式で、2つのバルブの枋を均等に用いた柱で、主楼の廂の柱と連結して一体の組成をしている。廂には意のままに斗栱を飛ばし、門楼の屋根の構成を歇山式にしている。主楼は三重の廂で、歇山頂式で、青瓦が屋根を覆っている。高さ8.2m。4本の真ん中の柱は三階まで至り、主楼の屋根を支えている。12本の廂の柱は二階まで至り、二重の廂を突き破るのをさえぎっている。角は跳ね上がっている。主楼の二階の正面に向かって左側に連廊を使って後楼とつなげ、前後が呼応している。建築は村落道の入り口にあり、更にそれを雅やかで威厳があるものにしている。

 1993年通道県級の文物保護建築に指定され、1996年湖南省文物保護建築に指定された。

横岭鼓楼群

通道県の西南18kmの坪坦乡横岭村にある。鼓楼、一号寨门楼、二号寨门楼の三部分で構成される。建てられた年代は、鼓楼が清の咸丰帝5年(1855年)、三重の廂の歇山頂式、一号寨门楼が清の同治帝3年(1864年)、二号寨门楼が清の光緒帝9年(1883年)。三つの王朝に分けて建てられたので、古くは三朝鼓楼と呼ばれていた。寨門は意のままに斗栱を飛ばし、排水天溝をつなげ、全体を構成しており、鮮明な本土の特色と民族建築の風格を持っている。

 1993年県級文物保護建築とされ、2002年5月湖南省の文物保護建築にされた。

兵书阁

通道県の西北50kmの戈冲乡占字岩村にある。建築年は今まで残されている閣楼梁に記載されているのによると、清朝嘉庆帝15年(1810年)である。一矢の間隔は残されている一つの三亭式廊下橋で、名を文星橋という。清の道光帝5年(1825年)と27年(1847年)に兵书阁と文星橋は相次いで補修が進行した。集橋、あずまや、閣、殿は一体の古建築群の系統に属する。兵书阁と文星橋は西側にあって、東向きで、南北の面の広さは19.2m、東西の奥行きは15.4m、高さは14.72m、西側には祠が一つ建ててあり、総面積は420㎡。

 兵书阁は穿斗与拾梁混构纯木件楼阁式の古い建築。清の嘉庆帝に建てられた時、双坡屋根、一階の一般人が住む建物だった。清の道光帝5年(1825年)村民が資金を寄せ集め、兵书阁と文星橋を再建し、もとの閣楼殿の明间儿を二つ伸ばし、高さを14.2m、三階六角の翘角檐攒尖葫芦顶式の楼閣にし、“整新像字、魏峨再出神霄之像”を使った。文星橋も建築の特色があり、東は双肩庶殿頂盖八字門枋の入り口で、西の端は単檐庶殿頂門枋作の出口で、橋の真ん中は重檐歇山頂式の閣楼、全長19.2mの廊下で構成されている。水の上ではなく、陸の上に架かっている。

 兵书阁の独特な建築風格は通道侗族建築史上古今未曾有である。濃厚な民族文化の趣であり、香りが漂いあふれ、長い歴史の混沌の中、今まで磨かれ、数百年も衰えず、実際に侗乡苗寨文化の貴重な宝物になっている。1988年通道県人民政府が県級文物保護建築にし、1989年保護範囲と建設控え地帯と指定した。2006年省級文物保護建築に批准。

白衣観

 通道県西北60kmの播阳镇県農場田埧の中の一つの小さい丘の上にある。清の乾隆帝24年(1759年)に建てられ、1989年落ちた板を補修。五階八角の本質構造の塔楼で、高さ18.92m、底階の辺は5.7m。楼内には木のはしごがかけられ、一階ごとに螺旋状にかけられている。毎階四面に格子縞の窓が開かれ、光を集め空気を入れている。主楼の四面には、干砌盒斗式を用いたレンガ塀で囲まれた合成院落である。面積は920㎡を占める。塔楼は全部純木質構造で支えられている。五階檐八角攒尖葫芦顶で反り返った軒先で角が跳ねている。鈴が40個かけられ、風が吹くといっせいに鳴り、響き渡る。全体を見ると、外に15本の廂柱を置き、そのうち8本は廂の角を支え、7本は七方の廂中部を支えている。入り口は柱とつながっていて、“八”字の扇門になっている。一~五階まで木とレンガから成る螺旋式の階段が設置され、毎階8つの扇形の窓が開かれている。

 白衣観はまたの名を千丘白塔という。以前、かつてある美しい神話物語が広がり伝わった。:夕陽が西に沈み、夕霞が空に映えるときいつも、清楚な白い服を着た女性が播阳河岸で、あるいは玉立于田中央で人に近づき死んでいった。そこで村人たちは自発的に一つの塔楼を作り、白衣観と名づけた。そして主楼は中軸、左右に建てられた部屋、前面に立つ門楼の四つで形成された院落となった。元の主楼内は毎階仏、神像が祭られ、一階には白衣観音、四隅には絵が飾られ、二階には木彫りの三尊団仏像、三階には木彫りの玉清、上清、太清の三者坐像、四階には系張天師の全体木彫り、五階には何もないが、内壁に彩色上絵や各種の神話物語の壁画が施されている。木彫りの塑像にかかわらず、彩色上絵の壁画も天然のものよりもたくみで、構成がしっかりなされ、端が乱れておらず、ばらばらになっていない。巧みで完璧な建築技術と彫刻と絵の高い技巧が意気投合し、入り乱れて輝き、名高い湘,桂,黔の少数民族地区の名所のひとつになっている。

貴州の人民出版社の「侗寨鼓楼研究」という本の評定は、白衣観は侗族地区唯一の道教観堂であるとしている。1972年湖南省人民政府は省級文物保護建築とした。

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