山と森と侗(トン)族と私

通道県トン族の文化概況

 トン族地区は長い原始社会を経て、唐代に奴隷制社会をまたがり越えて直接封建社会に入ります。宋代に「籠絡の州」が建設され、元明清に推進した「土司制度」(注:少数民族の首長で世襲の官職が与えられて、その地の人民を支配させた制度)及び後に土司制度を廃止し中央統治を強める政策の実施によって、漢族地区の封建的な政治経済や文化がトン族地区に対する影響が日に日に増え、土地は絶えずに集中され、あまねく封建の搾取が実行され、ひどく貧乏な者は次々と現れ、トン族地区が封建的な地主経済の発展段階に入ります。建国以前、社会経済の発展水準がすでに周辺の漢族地区と接近したトン族地区では、相変わらず「長老制」と「款約組織」を維持してきました。老人は一定の威信を有し、トン語の中で「Nyenc Laox」(ニイェン ラオ)即ち老人、あるいは「Yanc Laox」(ヤン ラオ)即ち郷の老人の意の言葉があり、「長老」に総称することができ、一族の長あるいは一つの砦の長に当たります。長老は数人あるいは10人の集団を作り、彼らによって日常の紛糾を仲裁して、当一族あるいは当砦を代表して外部と連絡を取り、習慣法を守り執行し、一族内あるいは砦内の事務の管理及び支配する権力と義務を擁し、報酬に固定することがなく、もし紛糾をうまく仲裁したら、当事者は通常に謝礼金の代わりに1回食事を招待するか、あるいは何束かのもち米の苗または少しの魚の塩漬けを送ります。長老制に適応したのはトン族地区の歴史上に普遍的に存在した「合款組織」です。「款」は軍隊及び法律の自治を実施する社会制度の一種で、村を守って外敵の強奪や侵入を防ぎ、「款」の規則をもって社会生活を管理し、民族の伝統文化を守ります。隣接する村で「小款」を構成し、幾つかの「小款」は「中款」を構成し、また幾つかの「中款」は「大款」を構成します。このようなシステムを「合款」または「連款」と言います。「小款」の民衆は長老の中で「款」の首領を選出し、紛糾の仲裁や「款」規則の執行に責任を負います。款内は「款脚」1人を設けて、通信事務と集会時の雑務を担当します。「合款組織」では「中款」と「大款」の首領を常設しません。連款会議が開催される時、会議の主催側の「小款」の首領が「連款」の首領とします。款首は「款」の大衆と共に「款」の規則を制定し、款首と老人がそれを暗唱し、解説をしっかりと心に刻み、トン族の歌に編入し、または石碑の上に刻んで残します。規則は政治から生産、生活までの各方面をまとめた厳格な習慣法です。違反者は処罰され、款首が自ら執行します。処罰は多種多様で、しかし懲役がありません。人々は規則に基づいて村を自治し、外患を防御し、社会治安と民族伝統の習わしを守ります。歴史の上で、通道県に9個半の「中款」があり、今の風習区は款区から発展して来ました。

トン族にはトン語が話され、スイ語、チワン語、タイ族語、ムーラオ語、ブイ語、マオナン語及びリー語などと音声、文法構造や語彙の方面はとても似ており、同じくシナ・チベット語族(注:従来はシナ・チベット語族の一部とされたが、現在では独立のタイ・カダイ語族とするのが普通です)に属します。中にはトン語とスイ語と最も似ており、いくつかの地方でほとんどお互いに通話ができ、言語学の上で両者をカム・スイ語群と呼びます。今ではトン語は2つの方言があり、通道県は南部の方言区域に属します。歴史の上で、トン族は民族の文字がなく、漢字を使うのが普通で、同時に漢字でトン語の音声を表す方法で古歌、ラブソング、款詞などを記録し、またこの方法を使ってトン劇の脚本を書いていました。建国後、言語学者達はローマ字を文字記号とし、トン文を制定しました。1958年国家の許可を得て、トン族の集中居住区の黄土郷でトン文を推進し、1万人余りの人がトン文の訓練を受けました。

トン族の地区の学校教育は漢族の地区と似ています。唐宋以後、漢族は続々とトン族の地区に来て学校を創設し、漢字で書かれた文章を使って学術講演をし、県政府のある町で塾を設立し、現存する恭城塾は明に建てた官立の私塾です。田舎では私塾が多く、児童の親から漢族先生を招聘して四書五経などの儒家と道家の著作を教授し、漢族の文化と思想を伝授します。辛亥革命の後で、西洋の制度によってたくさんの小学校と中学(高校)を創立し、教育行政部門が教材を公布し、統一の教育内容、統一の教育制度と統一の教育時間が実行できました。かねてから漢字で書かれた文章を使って教育し、漢族の文化教育制度を実行し、トン族の人の文化水準も彼が受けた漢族の文化教育の程度によって決まります。建国以前、学校に入って正規の教育を受けることができたのはその多くは豪族の子弟で、1つの村で3,4人に過ぎません。そのため、民衆のほとんどは非識字者で、社会の伝統教育はトン族の最も主要な教育方式になります。老人と両親、款首、歌師、芝居師、呪術者など自分が手本になって人を教えることによって、伝統文化知識を次世代に順次伝えます。例えば児童が正しい親族呼称の使用、客好きな風習、賓客を迎える儀礼、敬老の倫理道徳、各種の習わしの順守、各種の働く技能、各種の生産の経験と生活経験、晴雨の気象と徴候の観察、互いに助け合って互いに救い、人の財産をむさぼらず他人に損をさせて自分の利益をはからない道徳的な品質、礼儀をもって人に接する優しい平和の民族の性格などを維持します。その教材は主に款詞、歌詞、民話、伝説などで、年長者達と職人達自ら手本になることは最も効き目がある教材です;トンの歌のチーム、トンの劇団、芦笙のチーム、闘牛、各種の祝祭日と冠婚葬祭もまた社会の文化を伝授し、伝統教育の重要な方式と場所です。トン族の人はこれらの教育の中から、自分の民族の伝統文化の習わしや生産、生活経験を学んで継承し、これによって生存と発展するに必要な文化知識を獲得します。

トン族の文学は主に口頭文学で、漢字でトンの音を表す文章あるいは直接漢字で書かれた文章の作品もあります。それに文学の内容を表現するのが伝統の民族的形式で、「耶」(歌舞)、「塁」(筋道があり韻律があるフレーズ)、「暑ャ (ガ)」(各種の歌謡)、「暖」(民話)、「君」(曲芸)とトン劇などに分かれ、それ以外に、人生の哲理に富んで、生産、生活を反映することわざなどがあります。これらの文学形式は広範囲に民間で流行し、作品は当民族の歴史と社会現実を各方面で反映し、その中からトン族の歴史、生産情況、人間関係と社会の習わしを知ることができます。人々の熟知した有名な作品に《梅良玉》、《金漢列美》、《珠郎娘美》、《牛の由来》、《呉励のストーリー》、《林寛のストーリー》、《郎夜或美》、《トン族の祖先の由来》、《鼓楼の歴史》、《薩歳》、《楊のおじさんが飛山を救う》、《楊天応収支霧》等があります。「歌師」と「芝居師」は作家で、主に砦の老人、款首、呪術師、歌手と老人が口伝し、広範囲に影響し、代代と伝わっていきます。

音楽と歌舞は歴史が悠久で、今なお比較的完全に保存されています。最も流行する楽器は各種のタイプの琵琶(弾奏)と「果吉」(弓で弾く弦楽器)があり、この2種類の伴奏用楽器は音色が非常に優美で、しかも民族の特色を備えます。その次に舞踊の伴奏に専用する各種の芦笙があり、トン地区に流行するトンの笛、二胡、チャルメラ、銅鑼、太鼓、撥などがあり、これらの楽器は最後の3種類を除き、すべてトン族の人が自ら作り演奏するので、またも鮮明な民族の特徴を持ちます。トンのことわざ曰く「ご飯は養生して歌は精神を修養する」、トン族は歌を歌うことを食事と同様に重要視し、古来より年輩の人は歌を教え、子供は歌を学ぶ風習があり、鼓楼、乾欄、山、時折田野で皆は歌を歌い、至る所に歌堂です。歌師は人に尊敬され、歌の上手い人は人々の称賛を得ます。トンの歌は一人でリードして大衆で合唱する「大歌」が最も名高く、その中また鳥の鳴き声まねしたり、谷川の流れる水の音をまねしたりする「大歌」と児童の合唱する「大歌」が最も優美で人を引き付け、最も人気があります。1986年10月、9人のトン族の歌手から構成するトン族の合唱団はフランスのパリで公演し、この2種類の「大歌」を歌い、フランスの観衆の熱烈な賞賛を獲得し、「最も魅力があるポリフォニー」(『リベラシオン』[仏])と誉められました。その次楽器に合わせて歌う歌曲で、例えば琵琶歌、笛の歌、木葉歌などがあります。琵琶歌は楽器を弾きながら歌う歌で、多くは琵琶と「果吉」を使って同時伴奏する歌曲なので、メロディーはなめらかで、優美で感動させます。笛の歌と木葉歌は、多くはメロディーだけを吹奏するが歌いません。前者のメロディーは声調が優雅で、感情に富み、後者の音調は軽快です。また貴州、湖南、広西チワン族自治区の隣接しているトン族の集中居住区で流行するトン劇があります。それは文学の芸術と音楽、舞踊の総合芸術表現形式であり、清の道光時代に形成し、しかし通道県に伝わることは比較的遅く、1952年に三江より伝入しました。トン劇は歌うことを主として、それに朗読、アクション、踊りを一体とした芸術です。トン劇の伴奏楽器は、琵琶、銅鑼、撥、果吉、二胡、高胡などがあります。建国以前トン劇は男優ばかりでしたが、建国後やっと部分の女優を吸収し、公演する時民族の服装を身につけ、金持ちは立派な服装で、貧乏人は普段着を着ます。演出の動作は質素で、形式は簡単です。2百ぐらいの優秀な作品があり、その中『珠郎娘美』が映画『秦娘美』として撮影されました。

「多耶」は南部トン族地区に盛んに行われ、歌いながら踊る芸術1種で、男女問わず参加でき、性別によって円を囲んで、あるいは男女はごっちゃにして円を囲んで、手と手をつないであるいは両手を肩に掛けて、整然としている足並みで、拍子を踏んでいて、1人はリードしてみんなが歌いながら踊ります。宋の陸遊は「農閑期に、1、2百人が輪を作り、手を繋いだら歌を始めた」と「多耶」の情景を描写しました。ほかに比較的に流行する舞踊は芦笙の踊りです。吹く者は吹きながら踊り、その周りに女の子は輪を作り、女の子の外はまた青年が囲み、男女は芦笙の拍子を踏んで軽やかに踊ります。また形式多様な獅子舞と蛇踊があり、踊り手は皆男性で、歌と楽器の伴奏がありません。

トン族は一夫一妻制の核家族を実行します。夫は家長で、主に田畑の耕作、耕作用の牛の飼育、作物の収穫などの畑仕事を従事し、妻の主な仕事はブタ、家禽の飼育、機織り、家事、子供の世話などがあり、同時に夫に協力し農業生産を行います。息子が結婚した後両親と分かれ、新たな家庭を作ります。しかし、人々は大家族を誇りにし、常に幾つかの小家族が居住できる長家(1列の家)を建築し、息子達の結婚に備えます。家庭の財産は息子が受け継ぎ、平等に割り当て、娘は母の持ってきた嫁入り道具(田畑を含む)を受け継ぎます。息子と娘また扶養する人のいない独りぼっちの老人が、死んだ後の遺産が一族またみんなで継承します。トン族の一族の構成は住宅を分配する房族と宗族の2つのレベルからなります。宗族は同一の高祖の後裔で、「ドウ」と俗称し;同一の祖父の後裔は房族で「ブラ」と称します。房族は通常1人の族長があって、清明節共に墓参りをして会食し、共に祭祀活動を行い、一族の公共墓地があり、同一の鼓楼と一族の掟を守ります。村の中、他に親族のいない家庭は拠り所がないため、いじめを受けることもあります。その多くは他の一族に参加することを申請し、共に食事をし、その一族の人と知り合ったら、一族のメンバーとして扱われ、すべての権利と義務はその一族の人と同じに、ただ祭祀活動に参加することができなく、同じ一族の公共墓地で埋葬することができません。

トン族の男女は年齢が14、15になると、兄、姉に連れられ社交活動を始め、青春時代は皆恋愛の中で過ごし、両親に干渉されません。その恋愛の活動場所は室内(つまり女の子の部屋)が多く、何人かの女の子は夜間当所で集まって綿を紡いだり、刺繍をしたりして、晩8、9時後、男性の青年達が琵琶を弾いて、「果吉」を弾いて訪ね、それから一問一答の形式で歌い、男性が歌った後に、女性は応答を歌って、双方は歌詞で感情を示し、同時に自分を下げて、相手を褒めて、明け方まで続きます。意気投合する者は、男性側から色彩の毛糸、布地、化粧石鹸、タオル等を贈呈し、女性側は返礼として自ら織った絹織物を送り、しるしとなる品物を交換し、互いに一生の連れ合いを誓い、それから両親に願い出て仲人を頼み婚約し、それから夫婦になります。しるしとなる品物を交換するのは恋愛感情が離れがたい段階にすでに達することを示し、それを持って末永く幸せの証拠になります。もし両親は子女の願望を顧みず強行して結婚を決めるならば、駆け落ちし、2人いっしょに家出して、異郷で結婚し、日が経つにつれて両親が2人の結婚を受け入れたら、その時に故郷に戻ります。トン族は婚姻を結ぶ範囲が比較的に広くて、以前は同姓の婚姻が禁止され、「同じ井戸を使う者同士は通婚できない」との習わしがあって、後にそれが廃止になって、ある地方では同姓が現れ、村中の男女が婚姻を結ぶことができて、ただ同一の房族内の男女の婚姻と母が姉妹同士の親戚関係の婚姻を禁じます。男女は皆17、18歳で結婚し、年齢に大差がなく、女性が常に男性よりも年上です。婚姻の締結は主に仲人を頼み、婚約の儀式と新婦を迎えの3段階に分かれます。ある地方の儀式は豪華で、たくさんのお金を消耗します;ある地方は非常に簡単で、1人の老年女性が新婦を迎えに行って、翌日新婦は実家に戻って1本の天秤棒を選んで夫の家に帰って、それで結婚式が完成となります。トン族の地区では新婦を迎える日に性生活が禁じられ、結婚後の3年間新婦は仕事をせず家に居ります。結婚した男女に離婚の権利があり、どちら一方が離婚の申し出があれば、無条件に離婚が成立します。とはいえ、離婚率がとても低いです。

昔、侗族の女性は、自ら綿花を栽培し、自分で服を縫製し、冬は青、紫、藍色を好んで着、夏は浅い藍色や白色を多く着ていました。男性は左下右上の襟なし上着を着、帯を締め、下はバスーン型(大きなパイプ型)のズボンを穿き、足には鈎針で編んだ運動靴を履き、頭は侗布(侗族の布)である鉢巻を巻いていました。通常はみな同等のターバンを巻きますが、祝賀の儀式である盛装時は、円形のターバンを巻く人もいれば、角型のターバンを巻く人もおり、さらに鶏の尾の飾りを差しこむ人もいます。女性の服装は多種多様で地域差があり、通道県内9つ半風俗地区には10種類のデザインがあります。女性は、銀の飾りを好んでつけ、その中でも特に、スカートを装っている女性がぶらさげている銀の飾りは10キロの重さに達します。女性の衣服の飾りも多種多様です。

 清代以前、侗族の間では良質のもち米が普及していましたが、現在大部分の地域ではうるち米を食べています。もちを打ち、酒を醸造し、酸類の食品を製造するには、もち米を欠くことはできず、もち米を米類の高級品としています。お客様への贈り物は、必ずもち米を用いたものとその製品で、「もち米がなければ侗族ではない」という諺が昔からあるほどです。酸い食べ物(酸い魚、酸い肉食、漬物、酸いスープ、酸味のあるアオ瓜、酸いワラビ、酸いサヤインゲン、酸い唐辛子、酸いニンニクなど)を好みます。毎回の食事は全て酸味の料理で、夏は酸いスープを飲料とします。酸い品を考えると、お客様をもてなすときは酸を欠かせず、冠婚葬祭にも酸を欠かせず、神を敬い先祖を祭るときにも酸は欠かせず、祭りごとの盛大な宴にも酸は欠かせず、贈り物にも酸製品は欠かせないほど、どの家も一年365日酸い食べ物が途切れず、「侗族は酸から離れられない」「酸がなければ侗族ではない」という諺があります。男性は誰もが酒を飲み(男の子は7、8歳から飲酒を始める)、山地村々どの家も米酒を調合し、壺の中の酒とかめの中の米は同じように途切れることはありません。ある人は朝晩ともに酒を飲み、一日1キロほど飲みます。お客様が来れば、必ず酒を用いて接待し、「酒がないのは礼儀ではない」として、客を招いた日や祝祭日の日には、人々は午前飲んだ酒がまだ醒めていないうちに、夕食にまた酒を夜中まで飲み、一日中酒に酔い、ほとんど酔っていないときがないほどです。酒席では、酒が飲めない人は周りから見くびられ、大酒を飲む人は「英雄」とされるように、「侗族は酒から離れられない」という侗族の諺があります。侗族が食料にするものの範囲は極めて広く、全ての植物、全ての鳥類(カラスを除く)、獣、全ての家禽家畜、全ての魚、エビ、カエル、様々な虫類、毒蛇も食べます。要するに、大よそ全ての無毒の動植物はみな取って食とし、タブーなものは何もありません。鋳鉄の鼎で米を炊き、野菜を煮、木の蒸篭でもち米ご飯を蒸し、鉄製の釜で肉や魚や野菜を煮たり炒めたりします。大部分の地域は一日三食で、午前10時ごろに朝食をとります。温かいご飯とおかずを食べます。ご飯とおかずは凝っており、お客様にご馳走するときはなおさらです。油茶をよく飲む地域では、朝食に油茶を飲みます。午後2時ごろ、野外で労働していたり旅に出ていたりする人は、携帯しているおにぎりを食べ、子どもや家にいる老人は、朝食の残り物を食べ、午後は炊事をしません。晩9時ごろに夕食をとります。温かいご飯とおかずを食べ、酒を飲みますが、おかずは全て朝食ほどよいものではありません。侗族の特色ある食料は、腌魚(塩漬け魚)、腌肉(塩漬け肉)、油茶、牛癟、血醤鶏、血醤鴨及び、粟摘みや粟打ちの期間に野外で食べる焼き魚などがあります。

 住居は欄干木造で、多くは2、3階の建物です。3階建てに住んでいる者は、一階を家畜小屋、家禽小屋、肥料を堆積する場所、薪を積み上げる場所、米をつく石臼を置く場所、お手洗いとして使います。家屋の両端には二階に通じる梯子があり、同時に傾いたひさしを多く置くことで、階段が雨に濡れないようになっています。二階は家族全員が住む場所です。その前部が広々とした濡れ縁(長廊と言う)で、暑い日家族はここで休んだり、織物をしたり、家事をしたりします。後半部は、木の板で仕切られた部屋を寝室とし、その中の一室は暖炉部屋で、ここで炊事をし、また寒い季節には暖を取ったり、休んだり、接客をしたり、食事をしたり、織物をしたりする所で、暖炉の火と煙が消えることはありません。一つの家族が常に一つの欄干木造に住むことを「長屋」と言い、祝典、接客、先祖の祭りのときは、全家族が長廊で長机を使い食事をとります(長机宴)。

 侗族が分布する地区にはみな鼓楼と風雨橋の建築物が多くあり、一つの集落若しくは一つの姓につき一つの鼓楼が建っています。村の中に雄大壮観に立つ鼓楼は、定款組織の活動の中心となっています。村内の事務集会はここで話し合われ、定款の協議や注意が行われ、盗賊が村に入ったときなど、定款に違反した者はここで処刑を執行します。特に冬の晩、人々は「暖炉」の周りに腰をかけ、老人が話す古くから伝わる論語を聞いたり、新年や節句のたびに、鼓楼で「多耶」をしたり、侗劇を演じたり、「月也」のとき鼓楼で対歌を歌ったり、客を送迎する宴会を行います。鼓楼がない村には、「公舎」や「集会堂」などの集会場所があります。鼓楼が分布する地の多くには風雨橋があります。風雨橋は人々が休んで雨宿りする場所で、ここで若い男女が橋の上で対歌を歌ったり、芦笙を吹いたり、琵琶を弾いたりします。侗族の建築芸術は、鼓楼と風雨橋に集中して反映されており、全て一本の釘も使用せず、どの建築物も万遍の絵画と彫刻が散ばっており、その雄大壮麗さは、侗族文化の顕著なシンボルです。

 侗族の祭日は大変多く、どの月も毎月祭日があり、一ヶ月にいくつかの祭日があるときもあります。最も重要な祭日は旧暦の正月で、あまねく「春節」を祝います。そのほかに、「月也」の行事、二月には「艾米巴(よもぎ餅)節」、三月には「播種(種まき)節」、「花爆(花火と爆竹)節」、「歌節句」、四月には「黒米飯節」(または「鳥米飯」)、「洗牛節」、五月には「端午節」、六月には「吃新(初物を食べる)節」(または「嘗新節」「破新」)、七月には「中元節」、八月には「中秋節」、「芦笙節」、九月には「重陽節」、十月には「結婚節」、十一月には「侗年」を祝い、「過冬」とも言います。十二月には「春節」を祝います。各地の祭日は全く同じではなく、ある祭日はこの地方では祝い、あの地方では祝わないこともあります。ある名字には名字によって自分の名字節があり、昔の祭日は名目がすこぶる多く、時期が一致しない祭日もあり、「侗年」の時期まで地域によって差異があります。祝いの期間は、仕事は全国民定休日とし、新しい衣装を着、酒を飲み肉を食べたり、互いに客を呼んで宴会を開いたりし、先祖と神を祭り、対歌や「多耶」を盛んに行い、祭日を祝う雰囲気に満ちています。

 人が死んだときは、一般的に土葬が行われ、杉の木の棺桶を用います。老人が使用する棺桶は特に重んじられます。一本の根の杉の木から合成した一つの棺を最もよいものとし、鉄釘を用いず、全て凸凹した窪みで差し押さえ、多くの地域では、ワニスを塗り、白い棺は若者が亡くなったときにのみ使用されます。南の一部の侗族地区では、棺桶にワニスを塗ることを嫌います。老人が亡くなったときは、まず水を汲み、亡骸を入浴させ、男性は坊主刈りに剃り、女性は髪を梳きもとどりを結います。そして経帷子を着せ、もし死者の歯が全て揃っている場合は前歯を一つ撃ち落し、砕いた銀を少量口の中に含ませます。天への埋葬物は銅や鉄器、桐油を死者の身の回りに置くことを避けます。お棺が階下に停まり、通夜3~5日はお棺を見守り、その期間親を亡くした子どもは白色の喪服を着、一族の下の世代の者たちは、頭に白いチーフを巻きます。動物性食物をとることを避けますが、魚は食べることができ、塩辛い腌魚(「巴旱」と言い、味は塩辛く苦い)をもって客をもてなします。吉日を選び、出棺、埋葬し、墓山を積み、墓石を立てます。毎年清明節に墓参りをし、祭りを営みます。ある地域では埋葬を待つ風習があり、霊柩を村の周辺や郊外に置いておき、杉の木の皮で覆い雨を避け、村内で死者と同年代若しくは同一世代の人が全て亡くなってから、同時期に埋葬します。災難に遭い死んだ者は必ず先に火葬し、その後お骨を拾い埋葬します。赤子が亡くなったあとは土葬を行います。人々は、人の死後もなお魂が存在し、老人が亡くなりあの世に逝ってもなおこの世(人の世)の子孫や愛する人を気にかけていると考えています。人々はそれを自分の家の守護神であると視ています。新年や祝日を祝う際は祭り捧げる品を用意し、揃って食事をし、老人によって「祖先にまず食べさせ」、それから全員で食事をとります。家庭によっては、母屋に神棚を設け、新年や祝日、毎日朝晩神棚に焼香し紙を燃やし祭りを営みます。誰もがすでに亡くなった祖先を非常に敬虔し崇敬しています。南の侗地区では祖先の神「薩歳」が最も崇められ、守護神とされています。多くの村は「薩壇」を設け、春節期間中や日を選んで薩を祭り、祝日祝典の際も薩を祭ります。壇の前で焼香し紙を燃やし、酒、肉、魚、もち米ご飯を並べ捧げます。また、銅鑼を鳴らし、芦笙を吹き、多耶をし、薩神に、村の平和、民心の安らぎ、人と家畜の繁栄を祈ります。同時に、世の中の万事万物は人と同様で、あらゆるものには人に見えない魂があり、友好は人に平安と吉祥を与え、怒りは人に病気と災難を引き起こすと信じられています。このような神は大変多く、故に山川、古い木、大きな石、橋、井戸、太陽、月などは崇拝されます。決められた月日若しくは吉日を選んで祭りを営みます。例えば、春節期間の吉日を選んで井戸を祭ります。各家1人ずつ女性が酒、肉、ご飯、香紙を持ち寄り、井戸や川辺に集まります。各自祭りを捧げたあと、全員そろって席を囲み、食事をとります。食事を終えると、手を取り合い「多耶」をします。謳歌、井戸、四季はすがすがしく、その後次から次へと水を汲み家へ帰ります。

 侗族にはよい村の礼儀があります。人々は一族が集まって生活し、互いの助け合いが盛んに行われます。一般的に、家を建てるとき、結婚、葬儀、嫁ぐとき、めとるとき、客を招宴するとき、天災や人災に遭ったとき、孤児や未亡人など助けのない者が対応しきれないことなどがあったとき、家族や親戚、近所の人たちはみな自ら進んで無償で助け合います。侗族は一般的に人も財産も乏しくなく、遺失物を見つけたときは自分の手で持ち主に送り届けるか、村に取りに来させるよう呼ぶか、鼓楼の柱の上にかけて失った者が確認して受け取るようにします。山林、未耕作地、果樹、道に置いている柴、苗の束などは、草標(売り物であることを表示するために印として挿した枯れ草の茎)を挿しこめば、持ち主がいることを示し、どんなに月日が経っても、草標さえ存在していれば、誰かがそれを移動させたり持って行ったりすることはありません。人に対して友好的で、礼儀を重んじ、道で出会ったときは、知り合いか否かを問わずみな笑顔で迎え、お互いに挨拶を交わし、積極的に客や老人に道を譲ります。たとえ家の生活が貧しくとも、外から知り合いが来訪したり、自分の知り合いの知り合いが来訪したりするときは、みなお客様として、親切に煙草を渡し、鶏を殺し、魚を捕り、酒や肉でもてなします。近所の兄弟たちも酒や肉を持って客の相手をし、これを「帮盤」と言います。村人の知らない遠くから客が来たとき、みな「帮盤」の形式で鼓楼に招待し、その後、分かれて家に迎え宿泊させます。春節の期間は全ての村の老若男女が村落訪問を行い、芦笙を吹き、踊り歌い、侗劇を歌い、全ての村人が鼓楼に長テーブルを設け宴会でもてなします。同時に分かれて客を家に連れて行き、お客様としてもてなし宿泊させます。お客様を迎えるとき、人々はよく村門や住居の大門で「攔路(道を遮る)」儀式を行います。ザボンの葉や苗の草、綿布を横に掛けたり、木質生産器具をしつらえたりして障害を設置し、客は遮りの外に、主人は内にいます。主人は歌をもって尋問し、客も歌でもって応答し、主に満足してはじめて障害が取り除かれ、客を向かえ村に入り屋に入ることができます。旅に出るときは傘のみを持ち、昼食のおにぎりを身につけ、旅費は持ちません。どの町に出て夜が暮れても、そこで知り合いの家(若しくは宿泊先の人の知り合いの名前を言う)に宿泊し、主人はお客様としてもてなし、食費、宿泊代を取りません。夜明け出発のとき、主人はさらにもち米ご飯とおかずを入れた弁当を旅人に昼食として渡します。老人を敬う風習があり、机で食事をするときは、必ず老人を上座に座らせ、老人に鶏の頭やいい料理を取り、酒をつぎます。家を出るときは、老人に先に行かせ、老人の荷物を持ったり、てんびんを担いだりします。家に入るときは、老人に先に座らせ、煙草を渡し、若い人は老人の前で長い煙管を用いてはならず、ほらを吹いたり、下品な言葉を言ったり、足を組んで腰掛けたりしません。このような村の礼儀はどの侗族村にもあまねく広がっており、現在まで引き続き、絶えることはありません。

 侗族の伝統文化は歴史が長く、悠久の歳月を経て現在に伝わり、その他の民族との頻繁な交流の中、絶えず吸収されず、包容されることなく、発展し整えられてきました。その伝統文化はまるで一つの魚網のようで、どの格子縞も全て侗族自信の民族特徴であると言えます。

もどる
中国, 湖南省, 懐化市, 侗族, トン族, 日本語教育, 大阪大学。わたしたちは、中国湖南省懐化市にて「日本語教育」と「観光事業」をおこない、懐化市の人々との文化的な交流・相互理解を促進することを目指す、大阪大学で活動しているサークルです。 inserted by FC2 system